パトリック・クライファート(Patrick KLUIVERT)
フルネーム パトリック・スティーヴン・クライファート
国籍 オランダ
出身地 アムステルダム
生年月日 1976・7・1
身長 188cm
体重 80kg
利き足
ポジション FW(CF)
FK PK  
キャプテン経験  
代表デビュー 1994・11・16
チェコ戦
代表背番号 9 10
W杯メンバー 98年
ニックネーム  
個人タイトル 00UEFA欧州選手権得点王(5得点)
チームタイトル 94/95,95/96,06/07エールディヴィジ
94/95,95/96オランダカップ
94/95UEFAチャンピオンズ・リーグ
95FIFAインターコンティネンタル・カップ
98/99リーガ・エスパニョーラ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
94/95 アヤックス 25 18
95/96 アヤックス 9 28 15
96/97 アヤックス 9 17
97/98 ミラン(イタリア) 9 27
98/99 バルセロナ(スペイン) 19 35 14
99/00 バルセロナ(スペイン) 9 26 15
00/01 バルセロナ(スペイン) 9 31 17
01/02 バルセロナ(スペイン) 9 33 18
02/03 バルセロナ(スペイン) 9 36 15
03/04 バルセロナ(スペイン) 9 21
04/05 ニューカッスル(イングランド) 11 25
05/06 バレンシア(スペイン) 9 10
06/07 PSV 9 16
07/08 リール(フランス) 9 13
ゴール前の的確なポジショニングなど天性の感覚を備え、柔らかいボールタッチによるコントロールや高いキープ力で正確なポストプレーをこなします。並はずれた身体能力で難しいシュートをあっさり決める一方、イージーミスをする場面も見られるなど決定力に難があります。

スリナム移民の両親のもと、首都アムステルダムに生まれます。プロを志しながら家計を支えるため郵便局員になった父の存在もあり6歳でサッカーを始め、スカウトされて育成の名門アヤックスへ。資格は8歳でしたが7歳での入団と、高いポテンシャルを評価されました。
94/95シーズンに昇格して1994年8月21日にトップチームにデビューします。ファン・ハール監督の期待に応えて国内リーグで18ゴールを挙げると、チャンピオンズ・リーグでも決勝ミラン戦で唯一のゴールを挙げて18歳にして欧州制覇を果たし、リトマネン、ダーヴィッツ、セードルフらと共に欧州を席巻した「ヤング・アヤックス」の象徴的な存在となったのです。
97/98シーズンにミランへフリーで移籍。FW陣では最多出場を果たしますが、私生活でトラブルを抱え精神的に不安定となります。2トップを組むリベリア代表FWウェアとのコンビネーションも精彩を欠き、チーム自体も不調だったため思うような結果を残せませんでした。
98/99シーズンに恩師ファン・ハールに誘われバルセロナへ加入。ここでオランダ時代の輝きを取り戻し、リヴァウドやフィーゴと3トップを組んで活躍しリーグ連覇に貢献。その後入ってきたサビオラとも相性の良さを見せましたが、クラブが低迷期になったため、タイトルに結び付かなかったのは不運でした。やがてクラブから戦力外通告を受けました。
04/05シーズンにニューカッスルへ。シアラーとの2トップが期待されましたが、相次ぐヒザのケガで結果が出せず1シーズンでイングランドを去りました。
その後PSV、リールと欧州を渡り歩くものの、トップフォームに戻らず現役を引退します。そしてAZやオランダ代表で若手を指導しています。

U-15から各年代を経験し、1994年11月16日チェコ戦でフル代表デビュー。1996年欧州選手権では4試合で1ゴールを挙げてベスト8になりました。1998年W杯予選は4試合2ゴールと結果を残し、本大会ではベルカンプの支援を受けて1トップで活躍します。ベルギー戦で退場処分になったものの、アルゼンチンとブラジル戦でゴールを挙げてベスト4に進出しました。
2000年、地元開催の欧州選手権では準々決勝ユーゴ戦でのハットトリックなど5ゴールを挙げてミロセヴィッチと大会得点王を分け合いますが、またもベスト4止まりでした。
2002年W杯予選は9試合で5ゴールを挙げるものの予選敗退となり、2年後の欧州選手権はファン・ニステルローイの前に出番はありませんでした。
代表記録 79試合40得点

余談
・代表でライバルのファン・ニステルローイとは、生年月日が同じです。
2007年11月3日:新規アップ 2013年9月11日更新