三浦 淳宏(Atsuhiro MIURA)
フルネーム 三浦 淳宏(ミウラ アツヒロ)
国籍 日本 三浦淳
出身地 埼玉県所沢市
生年月日 1974・7・24
身長 175cm
体重 73kg
利き足
ポジション MF(LMF)
FK PK FK PK
キャプテン経験 クラブ
代表デビュー 1999・6・6
ペルー戦
代表背番号 11 14 17
W杯メンバー  
ニックネーム アツ
個人タイトル 97ナビスコカップニューヒーロー賞
11Jリーグ功労選手賞
チームタイトル 98天皇杯
所属クラブおよび背番号 出場 得点
95 横浜フリューゲルス 51
96 横浜フリューゲルス 30
97 横浜フリューゲルス 6 32
98 横浜フリューゲルス 6 32 10
99 横浜F・マリノス 9 29
00 横浜F・マリノス 9 26
01 東京ヴェルディ 6 22
02 東京ヴェルディ 6
03 東京ヴェルディ 6 26
04 東京ヴェルディ 6 23
05 ヴィッセル神戸 17 25
06 ヴィッセル神戸(J2) 17 46 15
07 ヴィッセル神戸 17
07 横浜FC 39
08 横浜FC(J2) 17 37
09 横浜FC(J2) 17 24
10 横浜FC(J2) 17
鋭いドリブルと絶妙なクロス、強力なシュートは敵の守備陣にとってはやっかいです。FKの名手でもあり、独特の回転がかかった鋭く落ちるボールや無回転のボールは、国内では何人も蹴ることができるものではありません。また、ロングスローも得意です。
右サイド、左SB、トップ下、ボランチとユーティリティ性も日本屈指の性能です。

埼玉県所沢市出身。大分市に引っ越し、俊足を見初められて地元のサッカークラブに入団しました。明野中へ進み、U−16日本代表監督だった吉武博文監督の指導を受けました。
そしてサッカーの名門国見高校に進み、FKをマスターしました。1年生からベンチ入りメンバーになって全国制覇を経験。3年生の時にはキャプテンとしてチームを牽引して2度目の全国制覇を成し遂げ、小嶺監督に「国見史上最高の選手」と言わしめました。
卒業後に青学大に入学しますが、1995年に横浜Fに入団が決まり中退します。1995年3月18日浦和戦でJリーグデビューし、7月8日の市原戦で初ゴールを挙げました。
横浜Fの合併・消滅が決定した1998年には、クラブ最後の天皇杯に臨んで優勝しました。その後横浜FMに加入し、その年に日本代表に初選出されました。
東京Vに移籍してスタメンに定着、当初は中盤の右サイドでしたが、左SBにコンバートされました。しかし若手の相馬崇が結果を出し、2004年に監督の方針でベンチ要員になりました。
出場機会を求め2005年に神戸に移籍。移籍直後からトップ下のポジションを与えられ、カズに代わってキャプテンにも就任。自身が出場するかしないかでチームが変わるほど影響がありました。そしてシーズン中盤でケガをしたためチームの順位は急降下。ベンチ入りすらできない試合も多く、結局チームは最下位のままシーズンが終わり、J2に降格しました。
シーズン終了後は、日本代表選出のためにJ1のチームに移籍するかと思われましたが、キャプテンとしての責任を強く感じていたため残留を表明します。06シーズンは出場試合数ゴール数共にチーム最多を記録し、J1復帰に大きく貢献しました。
07シーズン開幕後に首脳陣と対立し、横浜FCへ完全移籍しますが降格。小村、山口、久保、奥らがチームを去り、カズらと共にJ1復帰を狙います。しかしここでも世代交代のため出場機会が限られました。やがて指導者になる目標を立て、10シーズンを最後に引退しました。

2000年シドニー五輪にGK楢崎、DF森岡と共にオーバーエージでメンバー入りし、3試合出場。翌年のコンフェデ杯にも2試合出場しますが、W杯メンバーからは落選しました。
その後ジーコ監督により代表復帰すると、アレックスのバックアッパーとして4バックの左SB、3−5−2の左WBとして2006年W杯予選に3試合出場しました。
代表記録 25試合1得点

余談
・引退後、「淳寛」に改名しています。
2006年4月9日:新規アップ 2012年3月8日更新