宮本 恒靖(Tsuneyasu MIYAMOTO) | |||||||||||||||||||||||||||||
フルネーム | 宮本 恒靖(ミヤモト ツネヤス) | ||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | 日本 | ||||||||||||||||||||||||||||
出身地 | 大阪府富田林市 | ||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1977・2・8 | ||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 176cm | ||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 72kg | ||||||||||||||||||||||||||||
利き足 | 右 | ||||||||||||||||||||||||||||
ポジション | DF(CB) | ||||||||||||||||||||||||||||
FK PK | |||||||||||||||||||||||||||||
キャプテン経験 | クラブ 代表 | ||||||||||||||||||||||||||||
代表デビュー | 2000・6・18 ボリビア戦 |
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代表背番号 | 5 17 | ||||||||||||||||||||||||||||
W杯メンバー | 02年 06年 | ||||||||||||||||||||||||||||
ニックネーム | ツネ | ||||||||||||||||||||||||||||
個人タイトル | 04AFCアジアカップベストイレブン | ||||||||||||||||||||||||||||
15Jリーグ功労選手賞 | |||||||||||||||||||||||||||||
チームタイトル | 04AFCアジアカップ | ||||||||||||||||||||||||||||
05Jリーグ | |||||||||||||||||||||||||||||
06/07オーストリアリーグ | |||||||||||||||||||||||||||||
所属クラブおよび背番号 | 出場 | 得点 | |||||||||||||||||||||||||||
95 ガンバ大阪 | 11 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
96 ガンバ大阪 | 13 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
97 ガンバ大阪 20 | 26 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
98 ガンバ大阪 20 | 32 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
99 ガンバ大阪 20 | 30 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
00 ガンバ大阪 5 | 29 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
01 ガンバ大阪 35 | 24 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
02 ガンバ大阪 35 | 20 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
03 ガンバ大阪 5 | 26 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
04 ガンバ大阪 5 | 24 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
05 ガンバ大阪 5 | 30 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
06 ガンバ大阪 5 | 30 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
06/07 ザルツブルク(オーストリア) 17 | 9 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
07/08 ザルツブルク(オーストリア) 17 | 12 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
08/09 ザルツブルク(オーストリア) 17 | 0 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
09 ヴィッセル神戸 14 | 32 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
10 ヴィッセル神戸 14 | 6 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
11 ヴィッセル神戸 14 | 4 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
CBとしては上背が足りませんが、戦術理解力に優れ、相手の動きを読む力と状況判断能力で危機をいち早く察知するクレバーな守備を見せます。抜群のキャプテンシーでチームおよび最終ラインを統率、シドニー五輪やジーコ政権の代表では腕章を巻きました。 甘いマスクで女性からの人気も高く、メディアスターでもあります。 1987年5月、10歳のときに伏山台FCに入団しサッカーを始めました。地元の金剛中学校を経て、卒業と同時にG大阪ユースへ入団します。その後着実に成長を遂げ1995年1月にトップチームに昇格し、同年5月24日の1stステージ第18節の柏戦でJリーグにデビューします。 その後はレギュラーとしてチームに欠かせない存在になります。3度目の選出になった2000年のオールスターファン投票で1位になり、2002年にも1位に選ばれました。 2001年には海外移籍の話が持ち上がり、イングランドのウェストハムとの交渉が行われましたが、労働ビザが下りずに引き続きG大阪でプレーを続けます。 05シーズンの最終節までもつれた末リーグ優勝し自身初タイトルを獲得。翌シーズンも最終節まで優勝を争いますが浦和に敗れ連覇はならず、天皇杯のタイトルも浦和に奪われました。 シーズン終了後、日本代表で共にプレーしたアレックスと共にオーストリアのザルツブルクへ移籍、9試合の出場でしたがリーグ優勝を経験します。翌07/08シーズンはあと一歩のところでチャンピオンズ・リーグ本選出場を逃し、国内リーグでもケガに悩まされました。 2009年にJリーグに復帰してキャプテンに就任。本職のほかにボランチとしても存在感を放ち、監督交代が相次ぎぐクラブをJ1残留に導きます。しかし2年目以降著しく出場機会が減少、海外で指導者になることを目指し、11シーズンを最後に引退しました。 1993年の地元開催となったU−17世界選手権で4試合に出場。1997年Wユースでは5試合出場してベスト8に進みました。シドニー五輪の本大会ではオーバーエージの森岡にポジションを奪われましたが、ブラジル戦に出場しました。 2000年6月18日、横浜で行われたボリビア戦でフル代表デビュー。ヘルニアの手術を経て2001年のナイジェリア戦で復帰します。翌年W杯の初戦のベルギー戦でスタメンの森岡が負傷したため出番が巡り4試合に出場し16強に進出。合宿中の鼻骨骨折によるフェースガードをつけてのプレーが「バットマン」と呼ばれ、ファンも真似をするなど強い印象を残しました。 ジーコ監督になってからはしばらく召集されませんでしたが、2003年5月11日のパラグアイ戦で1年ぶりに召集され、フランスでのコンフェデ杯にも全3試合にフル出場しました。 翌年のアジア杯は中国で行われましたが、複雑な政治情勢もあり日本の試合ではブーイングがありました。しかしその中で勝ち上がり、ヨルダンとのPK戦では中村俊とアレックスのキックミスが芝の不良によるものだとしてレフェリーに場所を変えるよう要求しました。それが通り逆サイドで再開され、自身もPKを決めて勝利します。決勝ではホスト国を破り連覇しました。 2005年コンフェデ杯も3試合位に出場すると、2006年W杯予選でもチームで唯一全試合出場を果たし、アウェーのインド戦でゴールも挙げました。本大会ではクロアチア戦でPKを与えるプレーがあり累積警告でグループリーグ3戦目に出場できず、悔いの残る結果となりました。 代表記録 71試合3得点 2006年2月11日:新規アップ 2012年3月8日更新 |