サリー・ムンタリ(Sulley MUNTARI)
フルネーム サリー・アリ・ムンタリ
国籍 ガーナ
出身地 コノンゴ
生年月日 1984・8・27
身長 186cm
体重 76kg
利き足
ポジション MF(CMF)
FK PK PK
キャプテン経験  
代表デビュー 2002・5・17
スロヴェニア戦
代表背番号 11
W杯メンバー 06年 10年
14年
ニックネーム  
個人タイトル  
チームタイトル 07/08FAカップ
08/09,09/10セリエA
09/10コッパ・イタリア
09/10UEFAチャンピオンズ・リーグ
10FIFAクラブワールドカップ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
00 リバティ・プロフェッショナルズ    
01 リバティ・プロフェッショナルズ    
02 リバティ・プロフェッショナルズ    
02/03 ウディネーゼ(イタリア) 32 12
03/04 ウディネーゼ(イタリア) 32 23
04/05 ウディネーゼ(イタリア) 18 33
05/06 ウディネーゼ(イタリア) 18 29
06/07 ウディネーゼ(イタリア) 11 28
07/08 ポーツマス(イングランド) 11 29
08/09 インテル(イタリア) 20 27
09/10 インテル(イタリア) 20 27
10/11 インテル(イタリア) 11
10/11 サンダーランド(イングランド) 11
11/12 インテル(イタリア) 77
11/12 ミラン(イタリア) 14 13
12/13 ミラン(イタリア) 4 15
13/14 ミラン(イタリア) 4 26
14/15 ミラン(イタリア) 4 16
15/16 アル・イテハド(サウジアラビア) 4 18
16/17 ペスカーラ(イタリア) 13
17/18 デポルティボ(スペイン) 21
18/19 アルバセテ(スペイン2部) 6
19/20 アルバセテ(スペイン2部) 6    
無尽蔵のスタミナでボールを奪い、攻撃に転じれば正確なパスやミドルで相手を脅かします。そのプレーはブラジル代表カカのボールコントロールと、オランダ代表ダーヴィッツの闘志あふれるプレーに例えられるほどの評価を得ています。

首都アクラにあるリバティ・プロフェッショナルズで頭角をあらわし、16歳でのプロデビュー以降3シーズン在籍します。その後欧州クラブの目に留まり、マンチェスター・Uなどの入団テストを受けましたが、最終的にはイタリアのウディネーゼへ移籍します。
初年度こそサブでしたが、2002年11月6日ミラン戦でセリエAデビューを果たすと、臆することなく才能の片鱗を見せて脚光を浴びるようになります。
04/05シーズンはFWヤクインタやディ・ミケーレと連携、フィオレンティーナ戦など2ゴールを挙げてクラブ最高の4位でチャンピオンズ・リーグ出場権を獲得。翌シーズンの同大会予選はスポルティングを下して本戦で6試合に出ますが、バルサとブレーメンに敗れました。
07/08シーズンにクラブ史上最高の約17億円でポーツマスへ移り、8月11日ダービー戦でデビュー。リーグでは29試合4ゴール4アシストし、FA杯では準々決勝マンチェスター・U戦でPKを成功させ、カーディフとの決勝ではフル出場して69年ぶりの優勝を果たしました。
そしてモウリーニョ監督率いるインテルに当時のアフリカ勢最高額の移籍金で引き抜かれ、2年ぶりにセリエAに復帰します。不動のインサイドハーフとして27試合に出場し、ユヴェントス、ナポリ、ラツィオなどから4ゴール、6アシストしてスクデットを獲得しました。
2年目はモッタの加入もありフルタイムの出場が減りましたが、チャンピオンズ・リーグで9試合、コッパ・イタリアで5試合出てイタリア史上初の3冠を達成します。しかしベニテス、後任のレオナルド両監督の構想から外れ、半年間のレンタルで実戦感覚を取り戻しました。
その後インテルに復帰し、ボローニャ戦では途中出場からルシオをアシストしてチームのシーズン初勝利に貢献。途中でミランへレンタルされ、13試合3ゴールとケガ人が多いチームを支えて12/13シーズンに完全移籍となります。チャンピオンズ・リーグではバルセロナとの2試合に出てホーム戦で点を取りましたが、国内リーグではフル稼働には至りませんでした。13/14シーズンはユヴェントス戦で2点、ローマ戦で1ゴール1アシストと上位に結果を残しました。
15/16シーズンにサウジアラビアに渡ります。8月20日ナジュラーン戦でデビューした国内リーグでは2連続ゴールを決め、ACLでも5試合で1ゴールを決めました。
16/17シーズンの冬にセリエAに戻ります。カリアリ戦では相手サポーターの人種差別チャントに抗議する態度を示すべく、自らピッチを去りました。
17/18シーズン後半にデポルティボへ加入。セードルフ監督により2月23日エスパニョール戦でリーガデビューしますが、8試合で1勝3分4敗に終わり降格しました。
その後2部アルバセテへ新天地を求めています。

弱冠16歳で2001年Wユースに全7試合出場。アルゼンチンに敗れて準優勝に終わったものの、カカやアドリアーノらがそろったブラジルや、D・シセ擁するフランスに勝ち、MFエッシェンらと共に「黄金世代」と呼ばれるようになります。その後アッピアーやA・ギャンらと共にアテネ五輪に出場する予定でしたが、サッカー協会と対立して強制的に帰国させられました。
その後公式に謝罪して代表に戻り2006年W杯予選に出場。2004年6月20日南アフリカ戦で先制点を挙げてチームに勢いをつけ、無敗で出場権を獲得。母国初出場となった本大会ではチェコ相手に1ゴール1アシストで勝利し、アフリカ勢で唯一決勝トーナメントに進出。2008年アフリカ選手権では6試合3得点で3位になり、ベストイレブンに選ばれました。
2010年W杯予選では8試合2ゴール。本大会では初戦を欠場し、その後4試合もフル出場とはならず、準々決勝ウルグアイ戦の先制点が唯一のハイライトとなりました。
2014年W杯予選はエジプト相手のPKなど7試合で3ゴールと、アサモアと共に中盤をけん引します。3大会連続出場を決めた本戦もギャンをアシストして優勝するドイツ相手に善戦しますが、ポルトガル戦の前に協会幹部へ暴行したとして代表から追放されました。
代表記録

2007年8月11日:新規アップ 2019年6月30日更新