高木 琢也(Takuya TAKAGI) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フルネーム | 高木 琢也(タカギ タクヤ) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | 日本 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
出身地 | 長崎県南島原市 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1967・11・12 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 188cm | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 82kg | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
利き足 | 右 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ポジション | FW(CF) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
FK PK | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
キャプテン経験 | クラブ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
代表デビュー | 1992・5・31 アルゼンチン戦 |
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代表背番号 | 9 10 18 20 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
W杯メンバー | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ニックネーム | アジアの大砲 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
個人タイトル | 91/92日本サッカーリーグ新人王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
92ダイナスティカップ得点王(4得点) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
92AFCアジアカップ最優秀選手 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
94Jリーグベストイレブン | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
チームタイトル | 92ダイナスティカップ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
92AFCアジアカップ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
94ファーストステージ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
所属クラブおよび背番号 | 出場 | 得点 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
90/91 フジタ(JSL2部) | 15 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
91/92 マツダ(JSL1部) | 22 | 9 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
92 サンフレッチェ広島 | 0 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
93 サンフレッチェ広島 | 29 | 11 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
94 サンフレッチェ広島 | 42 | 14 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
95 サンフレッチェ広島 | 24 | 5 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
96 サンフレッチェ広島 | 30 | 11 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
97 サンフレッチェ広島 18 | 26 | 12 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
98 ヴェルディ川崎 18 | 22 | 9 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
99 ヴェルディ川崎 18 | 18 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
00 コンサドーレ札幌(J2) 18 | 17 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日本史上屈指の大型ストライカー。長身を武器にポストプレーでチャンスを作るのはもちろん、強烈なヘディングは自身の代名詞です。 強靭な脚力があり、両足からパワフルなシュートを放つ「アジアの大砲」です。 小学時代は野球をしていましたが、進学した中学校に野球部がなかったので、やむなくサッカー部に入部したことがきっかけで、本格的に取り組んでいきました。 そして強豪国見へ進学。2年時の小嶺監督赴任を機に練習はよりハードになり、やがてレギュラーを掴むと3年で総体に出場。さらに県の選抜チームにメンバー入りし、国体にも出場してチームを準優勝に導きましたが、高校選手権には不出場となりました。その後大阪商大に進み、3年時には関西大学リーグの得点王とアシスト王に輝きました。 卒業後フジタ工業(現湘南)に入団するも度重なるケガに悩まされました。そしてマツダ(現広島)に移籍し、22試合9得点7アシストと活躍。日本リーグ最後の新人王を獲得しました。 翌1993年よりJリーグが開幕します。5月16日市原(現千葉)との開幕戦でJデビューを果たし、26日の横浜M戦で初得点を挙げました。日本代表MF風間八宏、韓国代表FWノ・ジュンユンとともに攻撃の中心選手として活躍し、94シーズンの1stステージ、6月11日の磐田戦では勝利を呼び込む同点弾を決めてステージ優勝のタイトルを獲得し、ベストイレブンにも選ばれます。しかしV川崎(現東京V)とのチャンピオンシップでアキレス腱を断裂し完全優勝を逃しました。翌シーズンは、わずか5得点に終わり、自身の不振とともにチームも低迷しました。 1997年5月3日京都戦でJ通算3500点目を挙げるなど、2年連続2ケタ得点と復調の兆しを見せます。しかしクラブの財政が悪化し、後進である久保の成長を見届け退団しました。 V川崎では、1998年4月29日のホーム福岡戦で自身初となるハットトリックを達成するなど、エウレルに継ぐ9得点を挙げました。そして00シーズンより札幌でプレーしますが、ヒザの具合が悪化したため、チームのJ1昇格を置き土産にユニフォームを脱ぎました。 引退後は解説者を経て06シーズンに横浜FCのコーチに就任。その後監督が解任されるとそのままチームを指揮します。そしてJ2で優勝し、クラブ史上初のJ1昇格に導きました。その後も東京Vや熊本とJリーグのクラブを歴任しています。 JSL1部 22試合9得点 JSL2部 15試合3得点 J1リーグ 191試合64得点 J2リーグ17試合 フル代表デビューは大学4年の時で、1992年5月31日のアルゼンチン戦でした。やがてカズと2トップを組み、同年のダイナスティ杯では代表初を含む4得点と大暴れし、チームを優勝に導くとともに得点王にもなります。その後のアジア杯ではなかなか得点を奪えず、中山と途中交代する場面もありましたが、これに発奮し、決勝のサウジアラビア戦前半36分にカズのクロスを胸トラップし左足でボレーを叩き込んでアジア初制覇に大きく貢献しました。 1994年W杯予選は9試合出場しますが、最終予選で結果を残せず中山にポジションを奪われ、ベンチで「ドーハの悲劇」を味わいました。1998年W杯予選にも3試合出場しましたが、城や岡野ら若手の台頭があり、本大会出場はなりませんでした。 代表記録 44試合27得点 2007年2月18日:新規アップ 2012年3月1日更新 06横浜FC(クラブ初のJ1昇格)
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